メイクアップ

メイクアップ

kesyouhin

イタリアの化粧品がヨーロッパ各国に広がって、顔にオシロイを白く塗り、その上にベニを加える化粧がはやりになった。

伝説によると、エリザベス一世(十六世紀の後半)は、若いころには化粧に深い関心を示さなかったが、晩年にはオシロイを半インチ(一インチは二.五四センチ)もの厚さに塗っていたので、その表情がわからなかったといわれた。

オシロイを厚く塗ったのは、その時代には天然痘でアバタになった女性が多かったので、それとソバカスを塗りかくすためだったともみられている。

シェークスピアが戯曲を書きだしたのは、エリザベス一世の晩年からだったが、『ヴェロナの二紳士』に「顔のユリ、頬のバラ」というセリフがあり、『恋の骨折損』に「わしの恋人は純潔で、白と赤だ」というセリフが現われているが、「白と赤」というのは、顔や首筋や胸の上部にオシロイをふんだんに塗って、そのあとで頬とくちびるにベニをつけたことを表わしている。

このような厚化粧をシェークスピアは「ペインティング」と呼んでいたが、これはその頃の新語で、白鉛を原料にして、それに色や香料を加えたものを絵具(ペイント)と呼んでいて、それを顔に塗ったのでペインティングと呼ぶようになったわけで、明治初期にオシロイをまっ白に塗った顔をペンキを塗ったようだと形容したのと、意味はおなじたった。

十七世紀の初めにイギリスの詩人リチャード・クラショーが、女性の念入りな化粧をメイク・アップ(make up)と呼んだ。メイク・アップ→メーキャップは「仕上げる」という意味で、のち俳優などが化粧する→扮装するという一般語になり、今世紀になってハリウッドの映画女優たちの顔ごしらえという意味で流行語になった。

高価だった化粧品

高価だった化粧品

kesyouhin

化粧品をつくる商人が成長したのもルネッサンス時代のイタリアが早かった。

彼らのつくっていた化粧品はヨーロッパではデラックス品で、ある新婚婦人などはそれらの化粧品をまとめて買ったため、持参金がなくなってしまった、という。

初期には、東方から回教徒の女性が使っていた化粧品が輸入されていたが、それの需要が高まるにつれ、ヴェニスやジェノバの薬剤師や香料商は、自分で原料を取り寄せてそれをつくるようになり、ヴェニスのジァコーモ・デルラ・フェニーチェ(フェニーチェは不死鳥という意味)や、ユリの花を標章にしていた雑貨の大商人ムスキァーロといった商人が、その方面で有名になった。

ただし、その頃ではデラックスだった化粧品も、その正体は大したものではなく、お祭りの時など時間が長びくと、オシロイやベニが顔の上でとけて流れだしたし、暑さのはげしい時にも、おなじような化粧くずれが起こった。

最初は、女性が化粧をしたのはイタリアだけの風習だったので、他国からこの国に来た者には、それが奇妙に見えた。

フランスのグランジェ・ド・リヴェルデの『旅日記』に「ヴェニスの婦人は化粧品を使って顔を白くみせている」と書かれているし、おなじくヴェニスの政治や軍事を調べたフランスのデ・ラ・エイエは「ヴェニスの女たちは、ひそかに彼女らの胸や顔に赤いものを塗っている」と珍しげに伝えているが、ドイツのアルノルト・デ・ハルフは一四九七年に「ヴェニスの女たちの使っている化粧品は長持ちがしないので、夕方になると顔が青白くなり、もの凄い顔つきになる」と、やや皮肉に伝えている。

おしゃれの始まり

おしゃれの始まり

kesyouhin

ルネッサンスはフランス語で「再生・復活」という意味で、一般に「文芸復興」と訳されている。

それがいつ頃から始まったかは、見方によって一様ではないが、一般にはイタリアの都市の貴族的環境から発生して、十四~十五世紀のフィレンツェ(英語ではフローレンス)、十六世紀のローマが中心となった古典的な文化の復興をさしている。

その一つの現われは、中世のキリスト教的な束縛からの解放、近代的文化の形成の始まりということにあった。

教会の束縛が緩んで、女性たちが化粧をし出したのは、ルネッサンスがいちはやく始まったイタリアからで、その頃からイタリアでは女性が化粧をしないで世間に出ることはできなくなった。

化粧をしない女性は、よほどの変わり種であった。

十五世紀の詩人ピストーイアは母親の口をかりて、その娘に次のような身だしなみを教えている。

娘よ化粧をしないで外へ出てはいけません。あなたは少しばかり色が黒いから。
口を開きなさい、歯をきれいにしてあげるから。
乳房を張りだしなさい。
この白い布をかぶりなさい。
そしてあなたの顔に香料をふりかけなさい。

おしゃれの流行はイタリアから

おしゃれの流行はイタリアから

kesyouhin

中世の終わりからルネッサンスにかけて、ヨーロッパのおしゃれの中心地はイタリアであった。

とくにヴェニスは十三~十五世紀にかけて東方諸国との貿易によって富裕になっただけでなく、ガラス、レース、織物などの製造においても先駆をなした。

化粧が一般に行われていたイタリアでは、化粧品を使わなければ美しくなれないという考えが、早い時代から一般化していた。

ダンテ(一二六五~一三二一年)の『神曲』のなかにただ一人だけ、「自分の化粧した姿を写してみないで鏡の前を去った」という人妻が出てくるが、そんな女性はきわめて稀だったとみられている。

十三世紀のイタリアの詩人リカルド・フールニヴァルは、ブロンドの女の髪毛を黄金の糸にたとえ、その眼はタカの眼、まつげは茶色で弓なり、小さいバラ色の口は庭のバラのように赤く、歯は白く、手はヒマの実より美しく、そのツメは繊細でまっすぐであると形容している。

バラ水

バラ水

kesyouhin

リチャード一世(十二世紀)の十字軍がキプロス島(地中海東部)に侵入した時、この島には香りのよい花や香料がたくさんあったので、その部下の勇士たちは故郷の婦人たちを喜ばせるために珍しい香料を持ち帰っただろうと思われる。

それらの香料のなかには後世までその名前「シプル」(Chypre キプロス島のフランス名、香料の名前)がまじっていたにちがいない。

バラ水も十字軍によって実物がイギリスに持ち込まれたかどうかはわからないが、その作り方を伝えたことは間違いなく、その時代以後、イギリスの貴族の邸では、食事の際に手を洗うのにそれを用いるようになった。

イギリスでは十七世紀にイタリアからフォークが伝わるまで、食べものはすべて指でつまんで食べていたので、食前食後には手を洗うことが必要で、洗った手はテーブル・クロスで拭っていた。