西洋の化粧文化史

西洋の化粧文化史

kesyouhin

今の才シロイの祖先だった鉛白のオシロイが現われたのは古代ギリシアの末期だったので、それ以前のエジプト=『旧約聖書』の時代に、オシロイのような顔料が顔に塗られたかどうかについては、専門家のあいだで見方がちかっているが、それについてイギリスのジョン・プロフィの『続・人間の顔』(一九六二年)では、

「アッシリア、バビロニア、エジプト、ギリシアその他の古代文明の女性たちは、農民か奴隷でないかがり、いろいろの化粧品を使うことを知っていた。

そのなかには香りをつけた軟膏がふくまれていたが、それは皮膚の色を変える化粧品としてよりも、熱い乾燥した気候のなかで、皮膚の柔軟性を保つことがおもな目的であった。

古代人は総じて皮膚が茶色じみていたので、顔の色をできるだけ白くみせるために、ときどきレモンやリンゴの果汁のような植物質の酸を用いた。それが後世のポマード(ラテン語の果実またはリンゴが語源)であった」

といっていて、顔を白く見せるためのオシロイに似たものを塗ったとは書いていない。

『旧約聖書』の民は、モーゼに率いられてエジプトから脱出したので、彼ら(ならびに彼女ら)の風俗は、エジプトで身につけたものが多かったとみられている。

英語訳の『旧約聖書』は、一六一一年にジェームズ一世の勅命でヘブライ語から翻訳されたものがもとになっているが、それの「列王記」下(第九章)に「イゼペルはそれを聞いて彼女の顔を彩り、髪をととのえて窓から望み見た」という記述があるが、今日の解釈では、その頃には女性が顔を彩る風月はなく、顔の化粧はたんにまぶたのふちにコールという黒い粉を塗ることだけだったというので、戦後に改訳された『新英語聖君』では、「彼女の口を彩り」と改められた。

『旧約聖書』には、ほかにも「エレミア書」(第四章)に、「ああ、荒された女よ、あなたが紅の着物を着て、金の飾りで身をよそおい、顔を彩るのはなんのためか」という文句が出ているが、『新英語聖書』では、「あなたは紅い着物を着て、黄金の飾りもので身を装い、アンティモニーで眼を大きくしてあなたを美しくしているが、むだなことである。」と改められている。

それに対し、膨大な『古代技術の研究』(既刊九巻、一九五四~六四年)を書いたR・J・フォーブスは、メソポタミア南部で西暦前二十七世紀以前に栄えたスメルの女性は黄土を顔に塗ったので、それを「黄金の土」または「顔の花」(顔をはなやかにするもの)と呼んでいたが、エジプトの女性はスメルの女性ほどには、それを用いなかったといい、くちびると頬に塗るべ二はレッドオーカー(=絵具)を用い、手のひらや、足のウラ、ツメ、髪毛にはヘンナ(白い花の咲く熱帯の木の葉でつくった赤がかったオレンジ色の染料)を用いたと述べ、同時にエジプトではもっとも早い時代から化粧品の使用を開発していて、軟膏、クリーム、ポマード、ルージュ、オシロイ、ツメの塗料などを一般的に使っていたといっているし、エジプト学者のマスペロは、エジプトではまぶたやツメや手のひらだけでなく、頬やくちびるにも色をつけたと書いているので、いちがいにエジプトの女性が顔に化粧をしていなかったとはいえない。

ここではこれ以上の深人りはしないことにするが、後既のギリシアやローマの女性のように、ぺ二やオシロイで厚化粧をしていなかったことは、それを受け継いだ前記のような『旧約聖書』の女性の化粧の記述によっても、あきらかだといえよう。

エジプト人をはじめ、近隣の人びとが化粧をしたのは灼熱から皮膚を守ることが要だったというフォーブスの説があるが、眼のふちに色をぬったことも、魔よけや、太陽の強い光による限炎のクスリ、ないし虫が限に飛び込かのを防ぐことが目的だったとみられている。

Comments are closed.