西洋の化粧文化史/ギリシャ

西洋の化粧文化史/ギリシャ

kesyouhin

ギリシアでは健康な、自然のままのからだの美しさ、とくに若い男性の裸像が讃美され「美しい人」といえば美しい青年を意味していた。

ギリシア神話では、男性の神が女性の神に恋愛したケースはなく、美と愛情の女神アフロディテ(ローマのビーナス)だけが恋愛をしたのは、彼女が本来のギリシアの女神でなかったためであるが、彼女の場合も、女神のほうから美少年を追いかけた。

ギリシアの中心都市アテネが成立したのは西暦前九~八世紀頃だったが、初期のアテネの時代には、女性は男性より感情も知能も劣っていたと考えられていたので、娘だけほとんど教育を受けられず、十五歳ぐらいになると、逢ったことも見たこともない男性と婚約させられた。

女性の値打ちがなかったので、財産と地位のある家に娘を嫁入りさせるには、持参金を持たせてやらねばならなかった。持参金のおかげで、地位のある家庭の妻となっても、その地位は低く、夫からは召使と子守りの役にしかたたないと考えられ、妻と娘は屋敷の奥の仕切りをした部屋にとじ込められ、規則によって、外出の場合には夫の同意を得て、付添いの女奴隷をつれて出なければならなかった。

女性が比較的外出しやすくなったのは「彼女は妻でなく、母である」と呼ばれる年齢になってからであった。

もう一つの大きな理由は、ギリシアには遊女という女性の階級があって、笛吹き女や踊り子たちもその階級に属していた。ヘタイラは「話相手、友だち」という意味で、ギリシアでは男の女遊びが道徳的にも法律的にも非難されていなかったので、ギリシア七賢人の一人で立法家だったソロン(西暦前六三八~五五八年)の時代には国営の遊郭があって、その利益が国家の収入になっていた。

またギリシアには料理店がなかったので(西洋ではその状態が中世からさらにそれ以後まで続いた)、宴会は個人の家で行われたが、その家の妻や娘は宴席に顔を出さず、笛吹き女や踊り子たちがやとわれてきて、男性たちを楽しませた。

その後、ギリシアの女性は全身を化粧し、顔や干だけでなく、乳首に紅い色のタッチを与え、紅とオシロイをまぜてまるいオシリを彩った、などと書かれているが、おそらくヘタイラの風俗だったか、あるいは西暦のはじめに近づいた頃の、女性の地位が高まった時代の風俗の一部だったろうと思われる。

女性が夜ねるとき、ビューティー・マスクをあてることも、その頃のギリシアからはじまったとみられている。マスクは穀物のあら粉をふるいにかけ顔にあてがい、翌朝ミルクでそれを洗い落した。

1日のパックのはしりだった。

西暦二世紀頃のギリシアの医師ディオスコリデスは、キアンまたはセリナンに、太陽で乾燥したおなじ樹脂と、バラの軟膏を混ぜたものをマスクに用いると、ソバカスまたはニキビをなくすると記している。

ギリシアの女性は、鉛白オシロイを顔に塗ったことでも、草分けだったとみられている。

鉛白オシロイはおそろしい鉛の中心にかかるので、さまざまの悲劇をもたらしたが、それ以来、一八六六年に危険のない亜鉛革が登場するまで使われた。

彼女らは朝になってビューティ・マスクを洗い落し、鉛白のおしろいを塗り、それからペニ、アイシャドウ、マユづくりを行なった。

その時代には靴下はなかったので、マニキュアと回時に足の手入れがひろく行われた。

ギリシアでは初期にはべ二(ルージュ)を海草、クワの実、地衣などの植物を原料にしてつくっていたが、のちには辰砂(朱紅色の鉱石。水銀と硫黄との化合物で鮮紅色の結品を示す)などの鉱物性の原料が使われるようになった。

ギリシアの女性の化粧の有様を伝えたもっとも古い文献の一つは、ギリシアの歴史家クセノフォンの、「彼女らがもし夏に外出すると、その頬からは汗が首にかけて赤いシワをつくり、髪が顔にさわるとオシロイで白くなる」と風刺的に書いているのがそれで、同時にフォーブスによると、西暦前五世紀のアテネの墓(複数)から鉛白のオシロイのまるい固りが発見されたといっているので、ベニとオシロイを主にした、今日のような顔の化粧が、ギリシアからはじまったことは、大体問違いのない事実だといえよう。

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