おしゃれ観

おしゃれ観

kesyouhin

「美学は、ある日、哲学者の観察と欲望から生まれた」と詠ったのは、フランスの詩人・ポール・ヴァレリーだが、美はまた哲学とも無縁ではない。

つまり、美とは個人の人生哲学の現われであり、逆に言えば、哲学を持っていない人は、美しくはなれない。

知己の息子さんから「どんな女性をお嫁さんにしたらいいか」と、相談されたことがある。私は「三十年、四十年経って美しくなる女性」と答えた。

美も一種の芸術だと考えている。芸術には、創作者がいて鑑賞者がいる。その創作者から鑑賞者へ、美的感情を移行させるのが、作品だ。人間は、お互いが創作者であり、鑑賞者だ。

「自己」という芸術作品を創作し、他人に美的快感を与えられる人を、美しいと思う。

「自己」というカンバスに、自分で美を描けるところに、人間と動物との違いがあるのである。音楽であれ、美術であれ、芸術作品とその芸術家の人生観が無縁でないように、美の創造には、確岡とした人生哲学が必要なのである。

ただ単に、魅力的になろうとおしゃれをしたところで、美を創造することは、不可能だ。自己の主体性を確立し、人生哲学をつくり上げていく努力をする中で、自然に魅力が出てくるのである。

一部の女権拡張論者は「外面的な美しさを求めるのは、主体性を持たない愚かな女性の行為だ」と主張する。しかし私は、これこそ愚かな論理だと思う。彼女たちは、けばけばしく飾った人と、美しい女性とを、混同して考えているのではないだろうか。

一個の人間の、内面と外面を切り離してしまうことなど、できないのである。

精神的な美しさと外面的な美しさとは、必ず相関するものだ。人間の向上心というものは、もっと総体的なものであるはずだと思う。

よく人間を外観で判断してはいけないとか中味で勝負などと言われる。しかし中味で勝負できる人は、一般的にそれにふさわしい立派な態度が備わっているものだ。

「人はその制服どおりの人間になる」とは、ナポレオンの言葉。だが、確かに人間の内面と外面とは、相互関係にあるようだ。精神的に潤いを求めている人は、外面的にも潤いを求めようとするものである。

美はまた、総体的な感性から生まれたものでなければ、本当に美しいとは言えない。視覚だけの美しさを求めたのでは、片手落ちである。

視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、それに心を加えた人問の六感すべてに魅力的でなければ、本当の美しさは現れない。見て楽しい、聞いて楽しい、会えて楽しい。そんな総体的な美の創造があってはじめて人生に美しさが出るのだと思う。

だから、視覚的な美しさを無視することは、美の柱を失うようなものだ。どんなリアリストにも、ロマンチシズムはある。

ロマンチシズムの極致は、美の創造であるはずだ。人生の旅立ちをしようとしている思春期の頃に、ロマンチシズムを抑えてしまうと、かえって不自然な行動に出てしまう、ということなのだろう。

しかし、単におしゃれが欲求不満のハケ口になってしまえば、美しさを創ることはできない。

私はおしゃれの基本的なポリシーは調和だと考えている。社会的環境との調和、自然的環境との調和、感情と表情との調和、そして衣服と化粧との調和。

おしゃれをするには、相当な心構えが必要なのだ。

おしゃれには、心のおしゃれと身体のおしゃれがある。心のおしゃれとは、教養を身につけたり、思いやりや寛大さなどの豊かな心を持って、精神を洗練することだ。

そして、身体のおしゃれとは、化粧をしたり、衣服に気を遣ったりして、容姿を洗練することだ。

心身一体のおしゃれをして、はじめて調和のとれた美しさが生まれるのではないだろうか。

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