おしゃれと化粧の美学

おしゃれと化粧の美学

kesyouhin

私のハンドバッグの中には、いまでも必ず口紅が入っている。

もっともこの口紅は、ハンドバッグの中で眠っていることの方が多いのだが、それでも外出する時には、必ず持ち歩いている。

考えてみると、若い頃から、お化粧をするのが恥ずかしいとか、面倒くさいとかいう気持が先に立って、自分を飾るために時問を割くというようなことは、あまりなかった。私をよく御存知の方には、実際に
ハンドバッグを開けて、中の口紅をお見せしないと「いつも口紅を持っている」とは信じていただけないだろう。

しかし、年をとるにしたがい、化粧をするのはむしろ必要ではないかと思うようになった。

というのは老境にさしかかった者ほど、周囲との調和に気を配らなければならないと考えるからだ。

精神的には別として、肉体的には老いていること自体、決して美しいことではない。

よく「若い人は、若いというだけで充分美しい」といわれるが、老いた者の場合、残念ながらその反対だと思わねばならない。シボーボワール女史が書いた「或る戦後」の中にも、次のような一節が出てくる。

「よく私はびっくりして立ち止まる。私の顔の役目をしているこの信じられないものを前にして。自分の顔を不快感なしに見られたあいだ、私は自分の顔を忘れていた。それは自然にそこにあったのだ。もう駄目だ。私は鏡の中の自分を嫌悪する。」

「老い」が「若さ」の美しさに、素手で勝負できないのは事実だ。ところが、若さに憧れる気持は、老若男女を問わず、同じである。道端に咲くきれいな花に心を奪われることは、美しい社会に住みたいと思う気持に、変わりはない。

美しいということは、理屈抜きに楽しいのだから。

だからこそ、年をとった者ほど、社会からはみ出さない努力が必要なのだと思う。せっかく若い人たちが、社会に加えてくれている美しさを年寄りが引っ張るようなことは、絶対してはならないのだ。

私が、ハンドバッグに口紅をしのばせているのは、おそらくこのような気持からなのだろう。

美しさを求める心を無くした人は、まさに「恍惚の人」言えるのではないだろうか。

私はまだまだ「恍惚の人」になりたくはない。

高齢化社会が進むにつれ、化粧品の愛用者も、急速に高齢化しているようだ。

化粧に限らず、おしゃれなおばあさんが増えている。

もはやおしゃれは、若い人たちの専売特許ではなくなってきたといえよう。

しかし、これはきわめて自然な現象だと思う。仕事を持っていない人でも、音楽会に行ったり、美術展を見に行いたり、高級レストランで食事を楽しむといった機会が、多くなってきた。

それだけ、社会との接点が、多くなってきたわけだ。

社会に参加する以上、周囲との調和に気を配るというのは、社会へのパスポートを得た者の、必要条件である。その場の雰囲気を乱さないだけの身だしなみをたしなまないのは、エゴイズムと言えるのではないだろうか。

もちろん、高価なものを身につけ、高級美容院でセットしなければならない、ということではない。

街並みがきれいになるのも、端麗なビルが建ち並ぶのも、すべて人間の美的欲求から、生まれているのである。たとえ社会の第一線から遠ざかる年齢になったとしても自分が美を求めている以上、社会の美的欲求に応えなければならないのは、当然なことだろう。

私は、おしゃれの原点は、社会との調和をはかるための身だしなみにある、と考えている。

しかしそれ以上に、おしゃれとは、欲求不満のハケ口であるのかもしれない。

化粧品業界が不況に強いことは、証明された。おしゃれが欲求不満の解消になるというのは、何よりおしゃれをする時の気分が、楽しいからだ。

だからこそ、いくつになってもおしゃれ魂を忘れることができないのではないだろうか。

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