ご挨拶

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kesyouhin

はじめまして。現役教師の管理人です。

こちらのサイトでは化粧品百科ということで、化粧品の歴史や社会的意義など、その背景や文化についてご案内していきたいと思います。

ご愛顧いただければ幸いです。

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亜鉛華の発見

亜鉛華の発見

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化学の急速な発展が、化粧品の品質改良に影響を与え出したのは19世紀になってからで、1866年にそれまでの危険だったオシロイに代わって、酸化亜鉛(z-inc oxide 亜鉛華=flower of zinc ともいう)のオシロイができたときには、たんに危険がなくなっただけでなく、それまでの顔に塗る粉のように変色せず、安価に製造できるようになったので、ヨーロッパでもアメリカでも、その利用者がふえ、売上がふくれ上がった。

その後、さらに1916年に酸化チタニウムが発見され、翌年それでつくったオシロイがアメリカで大量に売り出され、鉛白のオシロイはギリシア以来の長い歴史を終わった。

わが国でも、西暦7世紀の終わりに、中国、朝鮮を経て鉛白のオシロイが伝わったとみられ、それ以後昭和の初期までそれが使われていたが、その一方で明治20年頃亜鉛華が輸入され、続いて大正12年に酸化チタニウムが輪人されたが、鉛白のオシロイは分子がこまかく、肌着きがよいというので依然として市販されていた。

それが全面的に製造禁止になったのは、はるかに後の昭和9年(1934年)12月であった。

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17・18世紀のオシロイ

17・18世紀のオシロイ

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オシロイの製法は数百年にわたっていっこうに進歩しなかったので、当時の紳士たちは美人と接吻したり、抱きあったりすると、オシロイとクリームで上衣がめちゃめちゃになった。

これは化粧品が不完全だったためで、美人といちゃついた証拠のよごれくらいは、戻りのタクシーのなかでハンカチーフか指先でポンと叩くだけで、たわいなく消えてしまう今日のオシロイとは、雲泥の相違であった。

18世紀になると、新聞が登場してそれに化粧品の広告が載るようになり、危険のない植物性の原料からつくった化粧品というのが謳い文句になったが、本当は正体が曖昧で、1777年に創刊されたフランスの最初の日刊新聞「ジャーナル・ド・パリ」の記事によると、多くの化粧品が依然として、朱、鉛丹、錫、鉛、硝黄、水銀などの有害な原料を使っていることが警告されている。

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安全なオシロイ

安全なオシロイ

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ただし、総ての女性が危険なオシロイを使っていたわけでなく、効果は劣るが、鉛白を用いない、いろいろのオシロイが考えだされていた。

胡粉や白墨の粉を原料にしたものはローマ時代から使われていたが、17世紀頃の文献をみると、真珠をやいて粉にしたものや、ブタのアゴ骨を粉にしてフルイにかけ、白ケシ油にまぜたもの(ブタのアゴ骨の粉は、ほかの動物の骨粉よりきめがこまかいといわれていた)や、「スペインの白」と呼ばれていた白墨の粉や、「パリの石膏」と呼ばれていたアーフバスター(上質の光沢のある石膏)の粉末などが現われているが、この種のものでは澱粉に香りをつけたものが評判がよかった。

その頃のオシロイの類は粉のまま売られていたので、今日でもオシロイのことを「粉」(英=powder、仏=poudre)といっている。

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おそろしいオシロイ

おそろしいオシロイ

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鉛のオシロイが文献にあらわれたのは西暦前5世紀ごろのギリシアで、16世紀ごろには水銀を原料にしたものが現われたが、鉛も水銀もおそろしい害毒を人体に与えたにもかかわらず、ほかに適当な原料が知られていなかったので、それの使用が前世紀の後半まで続いた。

今日の化学者によると、鉛は蛋白質を破壊し、沈澱させる原形質的な成分で、たえずそれに触れていると骨のなかにそれがたまって、すぐにはその微候は現われないが、突然に鉛が体液に流れ込んで、鉛毒の症状を表わすといわれている。

中心症状は慢性的で、最初は消化不良、つぎに腕の関節のマヒのような神経系統の不調や、幻覚、噪病、ケイレン、昏睡などの症状に陥る。

鉛白を使ったオシロイは現在は製造が禁止されているが、直接鉛が取扱う業種はもちろん、ペンキ、殺虫剤などには鉛が含まれているので、それの危険なことが強く警告されている。

また水銀の昇華物をもとにしたオシロイは、16世紀の化粧品の処方書に現われているが、これは有毒物だった。

これを顔に用いると皮膚の外皮が剥がれてソバカス、ニキビ、シミ、イボなどの汚れがとれたが、その一方で皮膚におそろしい焼けあとをのこしたので、さらに用いねばならなかったし、顔色が黄色または暗緑色または赤くなり、歯が腐って黒くなった。

そのため老年にならないうちに「サルのような皺だらけの顔」になり、目眩病にかかった家畜のようにブルブルからだを震わせた。

この化粧品はスペインまたはイタリアからフランスに伝わり、さらにヨーロッパの各国に広がった。

フローレンスやジェノバの女性は歯を黒く塗っていたといわれたが、それはこの化粧品のために歯が黒くなったことの現われであった。有毒な化粧品のために死んだ女性もあった。

1760年にイギリスのコヴェントリ伯夫人マリアは、鉛白と砒素をまぜたオシロイで、蒼白い、幽霊のような化粧をしていたため、27歳の若さで死んだと伝えられている。

イタリアの女性たちはこのようなオシロイのおそろしさを知っていたので、それを使ったのは日中だけで、夜になるとオシロイを落とし、小麦粉をあたためたり、ぬらしたりしたものを指先で顔に塗って、皮膚をやわらげ、魅力を保たせることに骨を折った。

これはローマ時代にネロ皇帝の妻ポッパエアが考えだしたといわれるビューティー・マスクの復活であった。

青白い顔

青白い顔

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フランスでは一七八九年の大革命が起こってさまざまの流行を悪夢のように洗い去ると、青白いセンチメンタルな化粧がはやり出して、やたらにベニを塗った顔は下品になった。

またイギリスでも、十九世紀の後半はビクトリア女王の時代で、女王は一八六一年に皇婿(夫)を失ったので、それ以後喪服をぬがず、化粧をしなかったので、女性の生活が地味になり、若い淑女の身だしなみがひかえ目になった。

化粧などもできるだけ目立たないようにこころがけ、くちびるはハンカチでかるくこすって血色をよくした。

ただし、だからといって、口紅がまったく姿を消したわけではなく、この頃の形容では「サンゴ色のくちびる」というのが、しばしば詩や文章に現われている。

またフランスでは、青白い顔がはやって、健康な若い娘たちはどうしたらよいかに迷った。

女性がわずかなショックで卒倒するのはまことにやさしく、可憐にみられたので、彼女たちはいつでも気が遠くなるように日頃から練習しておく必要があった。

感じやすい女性は、卒倒の芸術を身につけ、一分間の卒倒でも、あるいは半時間の卒倒でも、思いのまま気が遠くなることができた。その頃はコルセットをきつくしめていたので、ちょっとしたショックでも、気絶する女性が少なくなかった。

このような時間の背景ないし感覚の変化で、「顔にどぎつい色を塗る化粧」は流行おくれとなり、その長い歴史の幕を閉じた。

また十九世紀の後半に入って化学が進歩して、化粧品の領域にも根本的な変革が行われて新しい化粧品が生まれ、さらに今世紀の第一次大戦後からは化粧品の使用が落ち着いて、皮膚用クリームと粉白粉の使用が一般化した。

棒口紅(ルージュ)の使用を別にして、一九五〇年代まで顔を彩る(メイクアップ)化粧は演劇と映画の世界にかぎられ、「顔を彩った女(ペインテッド・ウーマン)」という言葉は、不真面目な女性の代名詞になった。