ご挨拶

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kesyouhin

はじめまして。現役教師の管理人です。

こちらのサイトでは化粧品百科ということで、化粧品の歴史や社会的意義など、その背景や文化についてご案内していきたいと思います。

ご愛顧いただければ幸いです。

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17・18世紀のオシロイ

17・18世紀のオシロイ

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オシロイの製法は数百年にわたっていっこうに進歩しなかったので、当時の紳士たちは美人と接吻したり、抱きあったりすると、オシロイとクリームで上衣がめちゃめちゃになった。

これは化粧品が不完全だったためで、美人といちゃついた証拠のよごれくらいは、戻りのタクシーのなかでハンカチーフか指先でポンと叩くだけで、たわいなく消えてしまう今日のオシロイとは、雲泥の相違であった。

18世紀になると、新聞が登場してそれに化粧品の広告が載るようになり、危険のない植物性の原料からつくった化粧品というのが謳い文句になったが、本当は正体が曖昧で、1777年に創刊されたフランスの最初の日刊新聞「ジャーナル・ド・パリ」の記事によると、多くの化粧品が依然として、朱、鉛丹、錫、鉛、硝黄、水銀などの有害な原料を使っていることが警告されている。

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安全なオシロイ

安全なオシロイ

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ただし、総ての女性が危険なオシロイを使っていたわけでなく、効果は劣るが、鉛白を用いない、いろいろのオシロイが考えだされていた。

胡粉や白墨の粉を原料にしたものはローマ時代から使われていたが、17世紀頃の文献をみると、真珠をやいて粉にしたものや、ブタのアゴ骨を粉にしてフルイにかけ、白ケシ油にまぜたもの(ブタのアゴ骨の粉は、ほかの動物の骨粉よりきめがこまかいといわれていた)や、「スペインの白」と呼ばれていた白墨の粉や、「パリの石膏」と呼ばれていたアーフバスター(上質の光沢のある石膏)の粉末などが現われているが、この種のものでは澱粉に香りをつけたものが評判がよかった。

その頃のオシロイの類は粉のまま売られていたので、今日でもオシロイのことを「粉」(英=powder、仏=poudre)といっている。

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おそろしいオシロイ

おそろしいオシロイ

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鉛のオシロイが文献にあらわれたのは西暦前5世紀ごろのギリシアで、16世紀ごろには水銀を原料にしたものが現われたが、鉛も水銀もおそろしい害毒を人体に与えたにもかかわらず、ほかに適当な原料が知られていなかったので、それの使用が前世紀の後半まで続いた。

今日の化学者によると、鉛は蛋白質を破壊し、沈澱させる原形質的な成分で、たえずそれに触れていると骨のなかにそれがたまって、すぐにはその微候は現われないが、突然に鉛が体液に流れ込んで、鉛毒の症状を表わすといわれている。

中心症状は慢性的で、最初は消化不良、つぎに腕の関節のマヒのような神経系統の不調や、幻覚、噪病、ケイレン、昏睡などの症状に陥る。

鉛白を使ったオシロイは現在は製造が禁止されているが、直接鉛が取扱う業種はもちろん、ペンキ、殺虫剤などには鉛が含まれているので、それの危険なことが強く警告されている。

また水銀の昇華物をもとにしたオシロイは、16世紀の化粧品の処方書に現われているが、これは有毒物だった。

これを顔に用いると皮膚の外皮が剥がれてソバカス、ニキビ、シミ、イボなどの汚れがとれたが、その一方で皮膚におそろしい焼けあとをのこしたので、さらに用いねばならなかったし、顔色が黄色または暗緑色または赤くなり、歯が腐って黒くなった。

そのため老年にならないうちに「サルのような皺だらけの顔」になり、目眩病にかかった家畜のようにブルブルからだを震わせた。

この化粧品はスペインまたはイタリアからフランスに伝わり、さらにヨーロッパの各国に広がった。

フローレンスやジェノバの女性は歯を黒く塗っていたといわれたが、それはこの化粧品のために歯が黒くなったことの現われであった。有毒な化粧品のために死んだ女性もあった。

1760年にイギリスのコヴェントリ伯夫人マリアは、鉛白と砒素をまぜたオシロイで、蒼白い、幽霊のような化粧をしていたため、27歳の若さで死んだと伝えられている。

イタリアの女性たちはこのようなオシロイのおそろしさを知っていたので、それを使ったのは日中だけで、夜になるとオシロイを落とし、小麦粉をあたためたり、ぬらしたりしたものを指先で顔に塗って、皮膚をやわらげ、魅力を保たせることに骨を折った。

これはローマ時代にネロ皇帝の妻ポッパエアが考えだしたといわれるビューティー・マスクの復活であった。

青白い顔

青白い顔

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フランスでは一七八九年の大革命が起こってさまざまの流行を悪夢のように洗い去ると、青白いセンチメンタルな化粧がはやり出して、やたらにベニを塗った顔は下品になった。

またイギリスでも、十九世紀の後半はビクトリア女王の時代で、女王は一八六一年に皇婿(夫)を失ったので、それ以後喪服をぬがず、化粧をしなかったので、女性の生活が地味になり、若い淑女の身だしなみがひかえ目になった。

化粧などもできるだけ目立たないようにこころがけ、くちびるはハンカチでかるくこすって血色をよくした。

ただし、だからといって、口紅がまったく姿を消したわけではなく、この頃の形容では「サンゴ色のくちびる」というのが、しばしば詩や文章に現われている。

またフランスでは、青白い顔がはやって、健康な若い娘たちはどうしたらよいかに迷った。

女性がわずかなショックで卒倒するのはまことにやさしく、可憐にみられたので、彼女たちはいつでも気が遠くなるように日頃から練習しておく必要があった。

感じやすい女性は、卒倒の芸術を身につけ、一分間の卒倒でも、あるいは半時間の卒倒でも、思いのまま気が遠くなることができた。その頃はコルセットをきつくしめていたので、ちょっとしたショックでも、気絶する女性が少なくなかった。

このような時間の背景ないし感覚の変化で、「顔にどぎつい色を塗る化粧」は流行おくれとなり、その長い歴史の幕を閉じた。

また十九世紀の後半に入って化学が進歩して、化粧品の領域にも根本的な変革が行われて新しい化粧品が生まれ、さらに今世紀の第一次大戦後からは化粧品の使用が落ち着いて、皮膚用クリームと粉白粉の使用が一般化した。

棒口紅(ルージュ)の使用を別にして、一九五〇年代まで顔を彩る(メイクアップ)化粧は演劇と映画の世界にかぎられ、「顔を彩った女(ペインテッド・ウーマン)」という言葉は、不真面目な女性の代名詞になった。

赤い化粧

赤い化粧

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十七世紀のルイ王朝では、宮廷の女性が先頭に立って赤い化粧をはやらせた。

十八世紀にはオシロイを陶器のように厚く塗った顔にベニが塗られた。

「ベルサイユ用」(ベルサイユはルイ王朝の宮殿)というベニは特別に色があざやかだった。

昼間は濃いベニを用い、夜はうすい色のベニを用いることがこの時代の化粧の技巧だった。

一七一二年にイギリスの外交官の夫人だったモンタギュー夫人がパリから書き送った手紙に「フランスの夫人の顔は火のついたような色で、人間の顔ではありません」と、その驚きを伝えたが、どうして赤い化粧がそんなに流行したかについては、さまざまの想像説が現われているが、その原因の一つは、上流階級の夫人の顔色がひどく悪かったことで、さらにそのもとは彼女らの生活では戸外の光にあたる機会が少なく、同時にたべものにからだのあたたまる脂肪がすくなかったためだったとみられている。

この時代はローマ時代とおなじく、ベニはくちびるよりも、頬を赤くする化粧品だった。