ご挨拶

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kesyouhin

はじめまして。現役教師の管理人です。

こちらのサイトでは化粧品百科ということで、化粧品の歴史や社会的意義など、その背景や文化についてご案内していきたいと思います。

ご愛顧いただければ幸いです。

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リップスティックの流行

リップスティックの流行

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アメリカでスライド式のチューブにつめたリップスティックとマユのペンシルが始めてつくられたのは一九一五年で、化粧品の容器に金属が使われたこともそれが最初だったとみられている。

それが一般化したのは第一次世界大戦の終わった一九二一年ごろからで、始めは自動車でドライブするときの化粧箱にふさわしいと宣伝された。

とりわけドイツで合成染料からつくったルージュが鮮やかにくちびるに塗られるようになったことと、一九三0年以来、アメリカでマニキュア用のエナメルが売り出され、女性のツメが宝石のようにきらきらするようになったことは、女性の風俗に大きな変化を与え、「化粧をしないくちびるは、光のないランプにひとしい」(フランスの作家マルセル・ジューアンドウ)といわれるようになったその後もルージュの質は絶えず改良され、キスのたびに男性を困らせる不便な化粧品ではなくなったし、三十分ごとに塗り直しをする面倒もなくなった。

アメリカでは一九三五年頃までに、あらゆる分野の化粧品が出揃って十種以上の色合いをもったリップスティックをつくる会社が十社以上にもなり、その年代には数千のハイスクールの女学生たちが、石鹸を使うのと同じような気持で、ルージュを使うようになったし、パリでも戦前はちゃんとした家庭では、二十歳までの娘にはルージュを使わせなかったが、今日では十四歳から十六歳ぐらいの娘でも、それを使っているくらいに普及した。

いろいろの化粧品が携帯用につくられるようになったので、第二次世界大戦では、婦人の兵隊が戦線で化航するようになった とも、新しい風俗になった。

コチニール

コチニール

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17世紀にメキシコのサボテンに寄生するコチニール(えんじ虫)が洋紅の染料として登場し、それをタマゴの白身あるいはゆでタマゴ、未熟のイチジクの乳汁、シコウバンやアラビアゴムなどで練ったものがくちびる用のべ二になった。

コチニールは処理法によって鮮やかなクリムソン、スカーレット、オレンジその他の色調を生じる。現在も食品や化粧品の着色や、わが国では日本画の絵具や、友禅染の染料になっている。

べ二

べ二

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古代エジプトの化粧を伝えた「旧約聖書」の女性たちの化粧が、目のふちを黒く彩ることに中心が置かれていたことはすでに記したが、エジプトとギリシアでは、くちびるにベニを塗ることが始まっていた。

べ二の原料には、ギリシアでは海藻、クワの実、地衣などの植物性の染料や、紫以の身をつぶしてつくった赤い染料が使われていたことはすでに記したが、16、17世紀には、辰砂(またはシンシャ)などの鉱物性の原料(有毒)でつくったものがもてはやされた。

これは色が皮膚にくいこむので、一度用いると、いつまでもとれなかった。

また十六世紀にはアカネの根からつくった赤い染料が一般化し、その後ベニバナからつくった色のあざやかな赤い粉(1753年にルージュとして登場)が使われるようになった。

いずれにしても、今日でいうと工業用や染色用の絵具が、化粧にもそのまま共通に使われていたわけであった。

イギリスでベニをルージュと呼ぶようになったのは1753年頃からで、フランスの影響であった。

化粧法の変化

化粧法の変化

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19世紀の後半に、オシロイとベニのこってりした化粧法が下火になったことはすでに記したが、今世紀にはいると、すっきりした単純な化粧法が主流になった。

これは質のよい化粧石鹸がつくられるようになって、それで顔を洗う習慣ができたことや、20世紀になって美容の専門家が現われ、それまで化粧は家庭で行なっていたのが、ビューティー・パーラーに行く習慣に変わったことなどの理由があげられている。

第一次大戦後にはアメリカでもヨーロッパでも数えきれないほどの新しい化粧品が現われたが、とくに生産が拡大されたのは粉オシロイとクリームで、一般的な顔の化粧のテクニックでは皮膚にクリームをつけ、多すぎたクリームは拭きとり、つぎにパフで粉オシロイをつけ、その日の時間にあわせた顔色をつくったが、オシロイの下の皮膚がはっきり見えるのをさまたげるようであってはならないといわれるようになった。

続いて50年代の終わりごろから、世界的に新しいメイクアップがはじまったことは周知のごとくである。

亜鉛華の発見

亜鉛華の発見

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化学の急速な発展が、化粧品の品質改良に影響を与え出したのは19世紀になってからで、1866年にそれまでの危険だったオシロイに代わって、酸化亜鉛(z-inc oxide 亜鉛華=flower of zinc ともいう)のオシロイができたときには、たんに危険がなくなっただけでなく、それまでの顔に塗る粉のように変色せず、安価に製造できるようになったので、ヨーロッパでもアメリカでも、その利用者がふえ、売上がふくれ上がった。

その後、さらに1916年に酸化チタニウムが発見され、翌年それでつくったオシロイがアメリカで大量に売り出され、鉛白のオシロイはギリシア以来の長い歴史を終わった。

わが国でも、西暦7世紀の終わりに、中国、朝鮮を経て鉛白のオシロイが伝わったとみられ、それ以後昭和の初期までそれが使われていたが、その一方で明治20年頃亜鉛華が輸入され、続いて大正12年に酸化チタニウムが輪人されたが、鉛白のオシロイは分子がこまかく、肌着きがよいというので依然として市販されていた。

それが全面的に製造禁止になったのは、はるかに後の昭和9年(1934年)12月であった。